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映画『鬼滅の刃 無限列車編』と『銀河鉄道の夜』(※ネタバレ少し有、改訂版) [映画の考察]

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こんにちは!映画を観る度に、作品の世界に飲み込まれすぎて夜眠れなくなるタイプのくろいです。


先日、『鬼滅の刃 無限列車編』を鑑賞しました。
少年漫画自体、ほとんど読まないし『鬼滅の刃』も、実はそれほど興味がなかったのですが、各メディアでの爆発的な人気を目にし「やっぱり気になるなー」ということで、筆者も観に行ってきました(※2020年11月鑑賞)


まず、本作を観て一番感じたのが


これは、もしかして、銀河鉄道の夜??


です。

もちろん、今回の映画『鬼滅の刃 無限列車編』のすべてが宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』である、と言いたいわけではありません。


ところどころ「銀河鉄道の夜」の物語のエッセンスが散りばめてあると言ったほうが、皆さんも納得しやすいかと思います。


SNS上で鬼滅ファンの方が、本作と『銀河鉄道の夜』を重ねた二次創作のイラストをアップしているのも見かけましたし、気づいている方もいらっしゃるようです。



さて、今回は映画『鬼滅の刃 無限列車編』と宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を照らし合わせ、ちょっと深読みさせて頂こうと思います!!


1.煉獄杏寿郎は、カンパネルラか


映画『鬼滅の刃 無限列車編』の登場人物の中で圧倒的なスターといっても過言ではないのが、この煉獄杏寿郎です。



先に言っておきますが、『鬼滅の刃 無限列車編』におけるカンパネルラ(『銀河鉄道の夜』の登場人物)は、煉獄杏寿郎で間違いないでしょう。


カンパネルラと煉獄のわかりやすい共通点として


①自分を犠牲にして最期を迎える利他的な人物像

②死に際に母親の幻影を見る

が挙げられます。


映画『鬼滅の刃 無限列車編』の舞台設定自体が「蒸気機関車(鉄道)」であり、そしてその機関車(鉄道)が、死の国へと続いているという点で宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を想起させることは言うまでもありません。


また、夢の世界と現実が交錯する場面がある点も、二作の共通点です。


①の「自分を犠牲にして最期を迎える利他的な人物像」に関して、煉獄杏寿郎は人間を食う鬼を倒すために、鬼殺隊の仲間のために、鬼殺隊の最高位として奮闘し、それだけのために命を燃やす存在です。

そして、本作『鬼滅の刃 無限列車編』にて鬼との一騎打ちに敗れ、最期を迎えました。


カンパネルラは、池で溺れたいじめっ子のザネリを助けようとしザネリの身代わりになるかのように溺れ死んでしまいます。


状況や立場は、大きく違いますが「他者のために生き、死ぬ」という点で煉獄杏寿郎にカンパネルラの面影を感じさせます。




②の「死に際に母の幻影を見る」ですが、これに関しては先に『銀河鉄道の夜』のカンパネルラについて補足説明しておきます。


カンパネルラは、銀河鉄道の中で「あっあすこにあるのぼくのお母さんだよ。」と言って、銀河に広がる「草原」のほうを指さしてジョバンニ(『銀河鉄道の夜』の主人公)の目の前から突然、姿を消します。


銀河鉄道から母の姿を見つけジョバンニの前から消えてしまった瞬間こそ、カンパネルラがザネリを助けるために息をひきとった瞬間なのです。

「銀河鉄道」というのは、ジョバンニが見た夢の世界にある鉄道なので、もちろん実在はしません。


しかし、カンパネルラが溺れ死なずに救われていたら、実はジョバンニと同じ夢を見ていたというシナリオもあったかもしれませんね。


話がそれましたが、要は煉獄杏寿郎が上弦の参の猗窩座との闘いに敗れ、息をひきとる寸前に母親の幻影を見るのと同様、カンパネルラは夢の中で母親の姿を見るのです。


改めて言うのも野暮ですが、二人とも亡き母のいる国へ行ったということでしょう。



2.蒸気機関車(鉄道)が現すもの

映画『鬼滅の刃 無限列車編』にも、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』にも蒸気機関車が登場しますよね。

映画『鬼滅の刃 無限列車編』では、敵の鬼である魘夢の血鬼術(鬼が持つ特殊能力をつかった術)を使って、車掌や乗客が操られたり眠らされたりしてジャックされてしまいます。

魘夢は乗客たちに夢を見せたまま、最終的には殺す気だったんですね。


映画『鬼滅の刃 無限列車編』で機関車は、魘夢の操縦する殺戮マシーンと化しており『銀河鉄道の夜』のような美しさは、ほぼ描かれていません。


しかし、殺戮マシーンであると同時に、煉獄杏寿郎と竈門炭次郎たちの絆を繋いだ舞台でもあります。


煉獄と炭次郎たちが出逢い、炭次郎の妹である禰豆子が鬼殺隊として認められたのは、他でもない無限列車なのです。



銀河鉄道の夜』の機関車は、神様が用意してくれた、ジョバンニがカンパネルラとの死別を受け入れるための美しい舞台なのでしょう。


銀河鉄道の夜』のジョバンニとカンパネルラは、宮沢賢治自身と斎藤宗次郎(内村鑑三という教会に属さず、キリスト教を信仰していた人の弟子。賢治の親友)であるという説もあります。

家が元々仏教であったためか仏教の教えを踏まえて物語を書いていた宮沢賢治が、斎藤宗次郎と出逢いキリスト教の教えにも理解を深めるようになったそうです。

銀河鉄道の物語』の中で、二人はジョバンニとカンパネルラとして「銀河鉄道」で出会います。


銀河というところが、空や天国を想起させますよね。
仏教の人でもキリスト教の人でも、「天国は、空にある」という発想は共感できる部分でしょう。



二人は、お互いの信仰を尊重しあいながら仲を深めていったようですが当時、宗教の壁というのは現代以上に大きかったかもしれません。



鬼になってしまった禰豆子とその兄である炭次郎を、煉獄が鬼滅隊として認めたシーンは、宮沢賢治と斎藤宗次郎のエピソードを彷彿とさせました。



映画『鬼滅の刃 無限列車編』では、鬼を倒すという目標が仲間たちの絆を強くしましたが『銀河鉄道の夜』は、「銀河鉄道」が宗教の垣根を超えて宮沢賢治と斎藤宗次郎の絆を繋ぐ物語であると読むことができるでしょう。



いかがでしたか?


今回は、『鬼滅の刃 無限列車編』と宮沢賢治『銀河鉄道の夜』を重ねて考察してみました。


筆者は、本作が初めての鬼滅!!だったので、鬼滅ファンの方からすれば、まだ読みが甘いところがあるかもしれませんが、映画から入ったことで大いに興味を持つことができました。


最後まで、読んで頂けたならありがとう御座いました。












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